遊楽日記 |
焦らず気負わず気ままに迷走中 |
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前記事とはまた別の自己満足SS
定番悪夢ネタ
神託の夢に参加してくれそうにない由良の夢の話
やっぱり内容は本編と関係ないです
材料が暗鬱
しつこくしつこく改稿します
私は取り残された。
寝台の上には病との闘争の末に命尽き果て、頬を青白く硬直させた女がまだ横たわっている。
どうして大した親交もない私だけが此処に残されなければいけないのだろう。死者と私しかいないのに、奇妙に居心地が悪かった。死体など見慣れたものなのに。
一連の儀式めいた進行のせいだろうか。
女の死を告げた医師の、スタンドライトの白けた光の中で黒く沈み込んだ双眸。
弛緩した躰にしがみ付いた男の、魂を絞り切る慟哭。
悲痛な情景を取り囲み、押し黙って壁際に立ち尽くしていた人々。彼らの影がまだ部屋の白い壁に焼き付いているようだ。そこには私の影も含まれている。
寝台の女と、その傍らに跪いた男。彼らが深く愛し合っていたことは、付き合いの浅い私にさえ理解できた。
寝台の女はまさに命尽きる寸前まで、掠れた声で何度も何度も男への想いの深さを訴えていたのだ。かつては柔らかな微笑を浮かべていたのだろう頬を曖昧に痙攣させ、骨の形が見えるほど細く枯れた腕を男ヘと伸ばして。
あなたを残していきたくない。
あなたともっとずっと一緒にいたかった。
男は彼女の腕を拾い上げ、肩が浮きあがるほど強く握りしめて、深く項垂れてただそれを聞いていた。
これは美しい、と表現できる情景なのか。間違いなく悲劇的ではある情景は、私にはどこかおぞましく見えた。
男は、医師に愛する伴侶の死を告げられたあとも、女の腕を握りしめたまましばらく動かなかった。
世話人に曖昧に促されてようやっと立ち上がると、覚束ない足取りで戸口へ向かう。男の憔悴しきって曲がった背中が戸口の暗がりに消え、足音も聞こえなくなるまで、壁際の人々は息をひそめて身動ぎひとつできなかった。
男の気配が完全になくなってようやく動き出す。
壁際から解き放たれた人々はふらふらと動き出し、寝台の傍らに代わる代わる立ち寄ると、女の貌を覗きこんで小声で女の死を悼む。
隣り合った誰かと、死んだ女と先立たれた男について、緩慢に囁き交わす。
弔意の陰に、何処か肩の荷を下ろしたような、ほっとした表情がちらついた。
私も彼らの後ろから女の死に顔を覗きこんだ。削げた頬。落ち窪んだ眼窩。傷んだ黒髪。口の端にこびり付いた白く乾いた泡。皺のよったシーツ。
葬儀人たちも影のように働き始めていた。女の姿を軽く直し、寝台の周囲から不要となった医療器具やスタンドライトを手際良く取り払う。代わりに四つの背の高い燭台を運び込む。
この地域の葬送の作法であるのだろう。部屋の四つの隅にひとつずつ燭台を備え付け、マッチを擦って恭しい手つきで火を灯す。銀の皿の上にか細い灯火が起き上がる。灯火はゆらゆらと揺れてあちらこちらへと影を伸ばした。四方からの光源に照らされて、そこここに伸びた影が生き物のようにうごめきだす。
気が付けば人の流れにのって寝台のすぐ傍らに押しやられていた。
ふと、女の貌を見下ろす。
女の貌が変わっている。にやにやと嗤っている。
――四方の光源で陰影の位置が変わったからだろう。
――錯覚だ。
じっと目を眇めた。
永久の別れに満足した人々が、部屋の戸口から去って行く。
葬儀人たちも一先ずの仕事を終え、戸口をくぐって消えて行く。
誰かが燭台のそばを通り抜けるたびに、灯火が揺れた。
影が揺れた。
女の貌が変わった。
死の床の上で女の貌だけがうねうねと嗤っている。泣き、憎み、悦び、哀しみ、読み取れない不可解な感情に歪み、また嗤う。
私は女の貌に魅入られて動けない。
立ち尽くす私に最後の葬儀人が少しの間女を見ていてくれないかと言い置いて、戸口へ消えた。
部屋には死者と私だけになった。
私は取り残された。
しん、と空気が止まる。灯火も、影も、無愛想に動かない。
寝台の女の貌は青白く硬直している。
私は我に返り、今更落ち着きなく周囲を見回した。
どうして大した親交もない私だけが残されなければいけないのだろう。死者と私しかいないのに、奇妙に居心地が悪かった。死体など見慣れたものなのに。
人がいなくなった部屋は狭く感じた。立方体を垂直に押し潰したような、真四角の部屋だ。壁も床も白く滑らかで窓はなく、ただ寝台の足先の壁に長方形の暗闇がべったりと張り付いている。
その、唯一の出入り口に扉はない。長方形に切り抜かれた戸口。その奥はいくら目を凝らしても覗えなかった。
女の寝台の他に家具らしい家具はない。四つの燭台があるだけだ。寝台は部屋の中央を少しだけ外れた場所に置かれている。
いつまでここにいればいいのか。
どれほど待っても誰も戻っては来なかった。唐突に何もかもが死に絶えたように、建物の何処からも、物音ひとつ聞こえてこない。灯火も死んだように揺らがない。耳鳴りがする程の無音に息が詰まった。
このまま立ち去ってしまおうか。途方に暮れて女の貌を見下ろした。
違和感に、ぞくりと背筋が粟立つ。
女の貌が、少しだけ柔らかさを取り戻しているように見えたのだ。
また、錯覚だろうか。
部屋の空気はしんと凍り付いている。
静止した陰影の中、女の貌が不可解に揺れた。
心なしか唇に色味が差している。
錯覚だ。
死者が生き返るはずはない。
気のせいだ――ありえない。
視野が歪んだ。
寝台の女は私の否定を覆す。
コマ送りの速度で柔らかさを取り戻していく。
頬がふくらむ。シーツが皺の模様を変える。
女に集束した私の眼が、どうしようもなくすべてを拾い上げる。
唇が震える。喉が、瞼が、微かに動く。
死んだ女が生き返る。生きている。気味が悪い。
女が、ぜぃ、と息を吐いた。
誰か!
ぐっと胸元をせり上がる悪心に堪え切れず叫んだ。誰も現れない。人の気配はどこにもない。ず、と靴底が鳴る。後ずさる。寝台へ身体を向けたまま戸口へ近づく。女に背を向けることが恐ろしい。
視野の端で、灯火が揺れた。歪んだ陰影の中で女の胸が大きく膨らんだ。――――。
――私は、足を止めていた。じっと寝台を凝視する。瞬くほどの間に何かが違っていた。
ふと頭を振り、おそるおそる寝台へ近づく。
女は死体に戻っていた。
呆然と立ち竦む。呼吸を思い出して、大きく肩を動かす。自分の呼吸音がやけに耳についた。
女の貌に目を落とす。
色味が失せて硬直した死体の貌。削げた頬。落ち窪んだ眼窩。
――あれは、幻だったのか。また、錯覚だったのか。
相変わらず部屋の空気は凍り付いている。錯覚を起こすに足る、四つの灯火は沈黙したままだ。原因がない。そして、私の瞼の裏に焼き付いた映像は、あまりにも生々しい。死に纏わり付かれて生きてきた私が、今更生者と死者を間違えるのか――?
息をひそめて手を伸ばした。
張りの失せた皮と骨の擦れる感触が、掌に、ぐにり、と伝わった。
呆然としたままどのくらい立ち尽くしていたのだろう。
空気の止まった部屋。時間の流れを喪った部屋で、もうどのくらい過ごしているのか判らない。誰かが戻ってくる様子はなく、私は、また死体が動き出すのではないか思うと恐ろしく、寝台の女から目が離せずにいた。何度触れても、彼女は死体だ。間違いようがない。
それでも、彼女はまた生き返るのではないか。本当には死んでいないのではないか。
つまらない妄想が、頭から離れない。
――堪え切れるはずがない。
そしてまたはじまった。私が恐れた通りに。
深く愛し、深く愛された女は、生き返った女は、私に向かって、愛した男の名前を呼んだ。
――嗚呼、堪え切れる、はずがない。
私は弾かれたように女の頸へ手を伸ばした。
素早く痩せ細った体躯へ伸し掛かる。寝台が大きく軋む。絡み付いた両手が女の呼吸を阻害する。女の貌が大きく歪む。細い頸だ。両の掌で簡単に包み込めてしまう。乾いている。枯れた幹のようだ。全身の力を込めた。ギチギチと皮が鳴る。女の顎があがる。ヤケに赤い舌がちらちらと灯影を照り返す。生々しく温度があった。女は、汗をかいた。
死体のくせに。
厭わしい。穢らしい。忌々しい。手の中で鈍い音がする。
身の内を満たす充足感。
頭の芯が痺れるような酩酊感。
ゆっくりと呼吸を繰り返した。
静かだ。やはり誰かが戻ってくる気配はなく、私の目前には乱れた寝台と、頸が折れた死体がある。枯れ枝のような腕がシーツから飛び出して、滑稽なかたちを作っていた。
コレは、元々死体だった。きっと直ぐに火葬される。誤魔化すことはできるだろう。
当面、どう取り繕おうか。
頭の中で無感情に算段しながらよろけた足取りで数歩、寝台から離れる。
私は常の癖で胸元に手をやった。
手は空を切る。ガツンと頭を殴られたような衝撃が走る。我が身の一部のように携えている機械がない。
落としたのか?
せわしなく周囲を見渡した。記憶を探る。心当たりはない。ない? 一体いつから持っていないのだろう。女の一度目の死の際には携えていただろうか。――部屋の外か? 振り返る。滑らかな白い壁。
白い壁に張り付いた長方形の暗闇がくっきりと瞼の裏に焼き付いている。
残像は瞬いた瞬間に消えた。
そこに戸口はない。そこにあるのは滑らかな白い壁だ。もつれる足で走り寄った。目を凝らしても指を走らせても切れ目ひとつ見つからない。眩暈がした。
押し迫るような壁。閉塞感に息が詰まる。どっと冷や汗が噴き出る。真四角の部屋。天井。四面の壁。四隅の灯火。この部屋には出口がない。
私はどうやって女の死を撮ればいいのだろう。
視界の隅で灯火が揺れる。
私以外の気配が身じろぐ。
女が息を吹き返す。
――撮ることができないのなら、
また、殺さなければ。
私は振り返る。