がたん、たたん。規則正しい振動が身体に突っかかる。
細い煙草の先端から紫煙がとろりと流れだし、窓の隙間から吸いだされて散っていく。
硝子一枚隔てた外には、金や青や紫や名状しがたい色彩を溶かし込んだ《ディラックの空》が広がっている。どんな世界よりも異質な景色も、慣れてしまえばただの背景だ。ロストレイルの車内にいれば安全であると無理やりに思い込むことさえ出来れば、車中が退屈であること以外に、不都合はない。
とはいえ虚無とかいう、理解の及ばぬもので満ちているらしい空間を眺め続けるのは現在も多少気味が悪く、乗り込んだ車輛に人が少ないのを良いことに、私はもっぱら煙草を燻ぶらせては散り散りになっていく紫煙を眺めている。行き先は慣れた壱番世界だ。事前に読む資料はなく、カメラの整備も早々に終えてしまった。
殆ど火口を呼気で煽らぬまま一本を燃やし尽し、のろのろと傍らに放りだしていた携帯灰皿に吸殻を押し込む。身に染み付いた仕草で中身の減った紙箱を引っ張り出し、手首で振って飛び出した一本を口に咥え、使い捨てのライターを口元に寄せる。気付けば随分と煙草の消費量が増えた。
かち、かち。
親指の先で小さく火花が散る。
かち。
私は眉を寄せ、掌を開いて安っぽい筒を確かめた。オイルが切れている。
苛立ちが燻ぶった。列車が目的地に着くまではまだまだ時間が掛る筈だ。未練がましくかちがちと火打石を鳴らし、振り、ライターを弄りまわす。
「よかったら」
にゅっと視界の隅から皺だらけの手が突き出された。私は軽く身を逸らす。掌にはちゃちな赤い紙箱が乗せられている。
煙草を咥えたまま視線をあげれば、身なりの良い初老の男が、通路から私の座るボックス席へと腰を屈めていた。背凭れには男の腕が置かれ、腕の上からは表情の窺えぬ目をした鳥型のセクタンがこちらを見下ろしている。
確か、無人のボックス席を一つ飛ばした後ろに座っていた男だ。
「使ってください」
初老の男はマッチ箱を差し出したまま、人の良さそうな笑みを浮かべた。
僅か逡巡する。
――見られていたのか。バツが悪い。
「……どうも」
しかし欲求には逆らえず、結局私はもごもごと礼らしきことを云って箱を掴みあげた。
箱の中にはぎっちりと木片が詰まっていた。どうにも規定量より多く見える。私は軽く力を込めて一本を引っ張り出し、背を屈めた。燐の燃え立つ乾いた音が空気を擦り、刺激臭と共に勢い良く炎が伸びる。
煙草葉と、紙筒が燻される微細な音は、列車の立てる小煩い振動に紛れて聴こえなかった。紙筒の先端がちりちりと赤く熱える事を確認すると、縮んだ木片を振って火を消す。肺へ含んだニコチンは微かな酩酊感を齎した。
また不明慮に礼を云い、男に紙箱を返す。男は微笑んで会釈して何故か対面へと座ってしまった。
頬を歪めかけたのを辛うじて堪える。
私は口唇の端に咥えた煙草を指先で抑え、低く問う。
「……あの、何か」
「いや、煙草がね」
「は?」
男は皺のよった片手に木製のオブジェを握り込んでいた。丸みを帯びた木製のそれを弄びながら、曖昧に言葉を切る。私は訝しく目を眇めた。
火種を貸しておいてまさか説教もないだろう。初老の男の手元からも同じく煙が流れ出、傍らの窓の隙間から吸いだされている。
鼻腔の奥を苦く刺激する紙筒のそれとは違う、何処か濃く甘い匂いが漂う。
男は私の目前でオブジェの、ゆるい曲線を描く嘴を口元に運ぶと、先端を咥えて小刻みにふかした。掌に乗った木の虚の中で仄かな赤がちらつく。艶やかな飴色がぬらりとロストレイルの灯火を照り返す。男はさも美味そうに陶然とした息を吐いた。
目尻に皺を作って笑み、視線を合わせてくる。
「きみ、パイプはやらないのかね」
「パイプ?」
堪え切れず眉根が寄った。これだよ、と対面の男は木製のオブジェを軽く掲げてみせる。
「……吸いませんね。何ですか」
「煙草がね――気になって。マッチを貸した礼と思って、少し与太話に付き合ってくれないか」
「……はあ」
……マッチなんか借りるんじゃなかった。
半ば無意識に、少しでも距離を取ろうと深く座りなおした。
一本の煙草に覚えた満足感は既に失せている。
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