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私はカメラを手に携え、慎重に窓辺のフチから遥か地上を覗き込んだ。靴先で蹴飛ばした硝子の破片がちらりと煌き落ちていく。
あの不快な音楽家の言った通り、この建設途中のホテルは辺鄙な場所にあるらしい。インヤンガイの見知った猥雑さは遠く、建物に近付く程に光量は減っている。
一時的な眩暈を堪え目を凝らす。地上に転がっているはずの屍は寂れた暗闇に紛れて見つからなかった。
この高さを落ちたのなら間違いなく死んだのだろうが……。
吹き寄せる強風に腹の底が震え、窓辺から離れる。
風の音が遠くなる。薄暗く広がりのある空間。建築器材に紛れ、資材にしては壊れた石材や調度の破片が散らばっている。
主にムジカが壊したものだ。大きく抉れた石柱に触れる。断面は滑らかで、ひんやりとした冷たさで右手の熱を吸い取った。
……よく、殺されずに済んだものだ。どこか他人事のような醒めた思考を巡らせる。
あの男は的確に私の位置を狙ってきていた。そのことへの特別な驚きはない。そういう突き放した淡泊さを持つ人間だと思っていたし、事実、あの瞬間にあの男が躊躇うことを少しも期待しなかったから、私は今生きている。……だが。
美しい言葉で紡がれたうたがまた響いた気がして音を立てて舌打ちする。断ち切るように石柱から手を引き剥がし、ムジカの姿を探した。
昇降機の前に見つけ、資材の残骸を避けながら近付くと、足音に気付いたのかこちらへちらりと視線を送って肩を竦めた。
「だめだな、動きそうにない。階段を降りるしかないらしい」
「ここからか」
見下ろした目の眩む高さを思い出しうんざりとした声が漏れる。
「ここで文句を言っても仕方ない」
苦笑を滲ませてムジカが云う。何かを、多分階段の在処を確認するようについと視線を滑らせると、そのまま私の脇をすり抜けて歩き出した。すぐに歩き出さない私に気付いて立ち止まり、振り向く。
「来ないのか」
さほど訝しむでもなく、年齢にそぐわない仕草で小首を傾げるムジカに、片手に抱えたカメラを示した。
「……先に行ってくれ」
ああ、と得心したように頷く声に背を向けてファインダーを覗きこむ。
気配が遠ざかる。
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開いたままのドアを抜ける。
上下に連なる、狭く急な非常階段。建設途中とはいえそれなりの装飾が施されていた表側とは違い、どこか素っ気ない印象だ。
音楽家が持ち込んだものだろうか。階段には明かりがある。建築用のライトで、足元がようやく見える程度の明るさだった。
ぼんやりとした橙の光に滲む中を、男の背中が降りていく。
私はカメラを構えてシャッターを切った。男が振り向く。
「もういいのか」
「ああ」
頷いて、足早に後を追った。
窓ひとつない深く閉塞的な世界に、二人分の靴音だけが反響する。
言葉を交わすこともなく、ぐるぐる、ぐるぐると、ただひたすらに階段を廻り降りて、地上を目指す。
踊り場で方向を切り替える。
いくつもの閉じたドアの前を通り過ぎる
ぐるぐると階段を巡りながら、私は先刻殺し合ったばかりの男の、あまりに無防備な背に視線を据えている。
健全な日差しの下でなら珊瑚色に見えるはずの髪色は、濁った橙に沈んで揺れている。
ひくりと右手の指が動く。
捉え損ねた熱を求めて疼く指先を、半ば無意識に擦り合わせる。乾いた掌が微かに鳴る。音にならない音の気配を覚え、意識的に呼吸を普段と同じくしながら、少しだけ足を早める。
ふらりと男の背に手を伸ばす。
「……そうだ」
不意に男が首を捩じって振り仰いだ。
男は足を止めた。私も足を止めている。薄闇に沈む男の本来緑灰の瞳が、咄嗟に引き戻した私の手の動きを捉えて微動したように見え、微かに喉が緊張した。
しかし彼はそれについては何も言わず、涼しげな笑みを閃かせ上目遣いに途切れた言葉を繋ぐ。
「今度、マジックを見に行かないか」
「マジック?」
機械的に言葉を繰り返す。意識は半ば以上あっさりと視線を切った男に捕らわれている。
「ああ。ショーのチケットを貰った」
男は既に私に背を向けていた。足を落とす速度も変わらず、しなやかな足取りでぐるぐると階段を降りていく。
……で、……に、と独特の耳に残る響きを持つ軽やかな声が足元に反響し、遠ざかる。
私は詰めた息を慎重に吐きだした。声を追う。暫く台詞を探った末、ようやく言葉を落とす。
「あいつの関係か」
「誰?」
「名探偵」
「ああ。いや。連治とはまた別だ」
「……」
「行くか?」
「構わない」
「そうか」
「……」
「……」
「……しかし、」
今度口を開いたのは私の方だった。
反応を探るように、あるいは、張り詰めた沈黙を厭うように、どうでもいいような問いを投げる。
「わざわざショーを見に行く意味があるのか?」
「トリックがあるのとないのでは大違いだろう」
「ない方が珍しい」
「あった方が面白い」
そういうものか、と呟いた。
どこか調子を外したやり取りが浮かび上がっては薄暗がりに取り残されていく。
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永遠に終点へ辿り着けないのではないか。
階段はホテルの底を突きぬけていて、私たちは薄闇の中を延々と降り続けなければいけないのではないか。
そんなつまらない錯覚さえ抱かせる下降は唐突に終わった。階段の先を硬質な石材が埋め尽くして塞ぎ、壁に無機質なドアだけが嵌っている。
出口を前にふと過ぎった不安は杞憂だったようで、ムジカの手で扉は呆気なく押し開かれた。
雑な臭いを含んだ外気が吹き込んでくる。
「簡単だな。鍵でも掛かっているかと思った」
「おれたちを外へ出さないために? 本来ここも彼の云っていた『結界』が塞いでいたんだろうが」
外へ出る。扉は背後でガチリと重たい音を立てて閉まった。
非常口は寂れた場所の更に裏の通りに面していたらしい。辛うじてひとつだけともる外灯の青白い光が路面を濡らし、建築物の隙間に蹲る影を引き立たせている。落ちた男は見当たらなかった。
ムジカが欠伸をかみ殺しながら眠たげな眼を空へ向けていた。つられて脱け出したばかりの背の高いホテルに沿って見上げれば、黒々とした建物の輪郭が暗く澱んだ空を負っている。
随分と長いあいだ閉じ込められていたように感じたが、まだ夜が明ける気配はない。
「帰りのロストレイルが来るまでまだ時間がありそうだ。おれは<駅>の近くで宿を探すけど、由良、あんたはどうする」
私は暗鬱な空を仰いだまま少しだけ迷った。やり残したことと、やり損ねたことを胸中で天秤にかける。
――なくなってしまうかもしれない。
「まだやることがある」
「また撮りに行くのか」
独白じみた、見透かすような台詞に応えず、黙ったままより暗い方へと歩き出す。
外灯の零す青白い光の範囲を踏み越えるまで歩いて振り返った。
既に気紛れな男の姿は消えていた。
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